わたしと女子プロレス 1

女子プロレスを初めて観たのは、今年の6月14日。ひとに誘われて行った、スターダム(という女子プロレス団体)の後楽園ホールの試合だった。
それ以前は、新日本プロレスを何度か観た程度で、新日本プロレスは強烈な魅力があったけれど、どこか「別に自分が観なくてもいいもの」という距離感があった。
だから、女子プロレスにもそんなに興味があったわけではない。知っている人たちと行けば、それなりに楽しいだろう、程度の気持ちだった。

出てくる選手、誰のことも知らなかった。けれどクリス・ウルフが出てきて、速いし強いしとにかく縦横無尽に走り回る魅力的な選手だったので「これは面白いかも」と思い始め、集中して観た。
紫雷イオと岩谷麻優のタッグもキャラクターが対照的で面白く、いいなぁ、と試合に入り込んできたときだった。
メインマッチで、里村明衣子が登場した。

ものすごい瞬間だった。視界が真っ赤になった。
圧倒的で涙が出そうになった。
女子プロレスを知らない私が、里村明衣子という選手の、名前や経歴を知るはずもない。
ただ、そこにいる、目の前のその人が、とにかくこれまでに見たことのない佇まいの、これまでに見たことのない種類の人であり、唯一無二の存在である、ということだけはわかった。
身体が震えた。

里村明衣子は、その試合で宝城カイリと対戦し、試合は時間切れ引き分けとなった。
来月のスターダムの興行で再戦する、と聞き、絶対に観ようと思った。
わたしと同じくその日初めて女子プロレスを観たIさんも、わたしと同じように里村選手にひどく興奮していて、必ず行きます、と言った。

あれを感じたのは自分だけではないということで、わたしは「里村選手には何かあるんだ」と、より強く思った。

あれは何だったんだろう、あの人はいったい何なんだろう、
どうしたらあんな風格が身につくのだろう。
里村選手について何も知らなかったわたしは、プロレスに詳しい友人たちに聞いてまわり、まず三冊の本を読んだ。
「1985年のクラッシュ・ギャルズ」「1993年の女子プロレス」(ともに柳澤健)、そして「プロレス少女伝説」(井田真木子)である。
呆然とした。どれも、すさまじい本だった。
熱い塊が自分の中を突き抜けていくようだった。
自分が求めていたものがここにあった、と思った。とっくの昔に、それは「あった」のだ、と知った。
なぜこの熱狂を自分は知らなかったのか、と思ったし、そこに描かれている葛藤は、自分もその片鱗を知っているものだった。
自分のためのものがここにあったんだ、と思った。

女が、女であることから逃げず、女でありながら、いや、女だからこそ輝く世界。
どういう態度が「正しい」か、ではなく、それぞれがそれぞれの思う正しさや強さに向かってゆく世界。
その中で、否応なく自分自身に向き合い、徹底的に自分は自分自身にしかなれないということを突き詰めていく世界。自分が輝くしか方法のない世界。
それは、いま、自分がいる世界そのものではないか。
唯一、女が女であることがマイナスにならない世界、であるようにも見えたし、
その一方で、幾多の偏見があったであろうことは、たやすく想像できた。

凛としている、とか、揺るぎない、とか、目指すべき女性像としてそういうものが自分の中にあって、
そうなりたいという気持ちがあって、
でも、実際には、わたしはそんな人をこれまで、見たことがなかったのだった。
みんな揺れているし、自分の仕事での評価と、女としての評価は別物で、そこで「自分は自分でいいんだ」と言い切れず、自信をなくしていく。
自己評価と他人の評価だって全然違うのだ。
一生懸命やった、精一杯やっている、そんなものは話にならない。どこまでがんばっても、努力が足りないと言われる世界で、いつしかわたしの中で「凛とする」とか「揺るぎない」とかは、ただの外面で、虚勢で、「そういうふうに見せるだけのこと」になっていった。
揺るぎない人として雑誌などに登場する女性は、ただの無神経な人にしか見えなかった。

あの日、わたしは、本物を見たのだ。
本物の揺るぎない女性。
本物の、信じるに値する女性を。
こんなにかっこいい人は見たことがない。

男に怯えられないように、怒りを隠し、
嫌われないように自分の嫌な部分を隠し、
いやなことをいやとも言わず、なるべく穏便に、
うまくやっていくのが生き残るこつなのだという、
自分の生き方なんかとは、まるで真逆のものがそこにあり、

闘志をむき出しにして、仁王のような顔で宝城カイリを睨みつけ、咆哮し、立ち向かってゆく里村選手は、
ひたすら誰よりも何よりも美しかったのだ。
自分が「こんなことはしてはいけない」と思っていたことをやっている里村選手が、
わたしを滅茶苦茶に破壊してくれた。

年を取ったら、どうなるのだろう、とぼんやり思っていた。
恋愛なんかできなくなるかもしれないし、セックスだって求められなくなるかもしれない。
書き手としても、若い人のほうがニーズがある。わかりきったことだ。
自分はその中で、どう誇りを持てばいいのか。
誰にも求められなくても、自分は自分だと言えるような何かを持てるのだろうか。
漠然と感じていた不安が、強烈な希望に変わった瞬間だった。
自分の力で立って、圧倒的な輝きを放っている人がいる。
里村明衣子がいる。
あの人がいる。
最前線で戦っている。
また観に行ける。
嬉しかった。
本当に、本当に嬉しかった。


※東京では11月12日に後楽園ホールで、里村明衣子選手主催のセンダイガールズプロレスリング主催の大会があります。

www.sendaigirls.jp



生きているというのは、

悲鳴と沈黙を繰り返すようなことだ。
内側で静寂と絶叫が繰り返されているあいだ、
外側で絶え間なく、さざ波のようなおしゃべりが起きていて、
そのおしゃべりのさざめきが、
きーんという耳鳴りの世界から、ふと自分を連れ戻してくれる。

自分の外側のへりの部分を波型にかがり、
せわしなく刺繍をほどこしていくおしゃべりが、
不意に内側まで針を刺してくることがある。
痛いこともあれば、そのおかげで、
悪い血が出ていくようなこともある。

自分の外側には、友人たちの手により、
丁寧に刺繍を施されたレースのへりがついていて、
そのへりには、ときどき、血がにじんでいる。

時が経ち、酸化して、
紅茶の濃淡のような色合いになったレースが、
自分の外側についているといい。
装飾品はそれだけでいい。

ああ、もう、いやだいやだいやだ。
何もかも捨てて逃げたい。
生きたい、と思うときがある。

じゃあ、いまの自分は死んでいるのか、というと、
死んでいるのと同じだと思う。

何かを発信するとき、それが伝わる速度は遅い。
伝わったときにはもうとっくに飽きている。自分の中では終わっている。
その終わったものに時間を取られていくのが、耐えられない。

いまが欲しい。

いましか書けないものを、いましかない気持ちで書きたい。

そうでない時間なんて、死んでいるのも同じことだ。
ああ、もう、何もしたくない。
つまらなくて退屈で、
虚しく遊んでいるほうがまだましだ。

最近、イベントの告知で自分の名前を見て、
「あ、なんか、こんな人いたな」
と思ってしまった。
自分が遠く離れていく感覚。

何年に一度かのサイクルで、自分の中身が入れ替わっていくような感覚がある。
それまでの正義が、正しくなくなり、
それまでの好きが、好きでなくなり、
それまでの自分が、ふっと消えるようにいなくなってしまう。
興味の矛先が、まったく違う方向に向かっていく。

それが、はたから見れば唐突な変化だということもわかっている。
でも、自分の中では、特に不思議でもなんでもない普通のことで、
どんなことだって起こり得るのが、普通なのだ。

小さな死を繰り返し、自分で自分の息の根を止めて、先へ進むしかない。

こないだの雨宮

日曜の朝日新聞にインタビューが掲載された。
「東京を生きる」が出たことで、いくつかインタビューをしていただいたが、
うまく言葉が出てこなくて、インタビューというのはいつも、ちょっと申し訳ない気持ちになる。

今回は、「なぜ文体を変えたか」ということ、
「なぜ東京を舞台にしたか」ということを訊かれることが多い。
(自分がインタビュアーでも、そう訊くと思う)

常々思っていることだが、

「女性のエッセイスト」というのは、
私生活を晒すことを求められすぎると感じる。
もちろん全員ではない。書く内容にもよるが、
結婚しているか、いないか、
子供はいるか、いないか、
彼氏はいるか、いないか、
お金はどのくらい持っているのか、

見た目はどんなか、
そういう情報の開示を求められる。

私の場合、デビュー作が自虐文体だったから、
そうした情報の開示を求められた。
そして、そのあとは、
「独身」「30代」「女性」という「立ち位置」の枠内で、
何か書いてほしいという依頼が増えた。

30代なのも独身なのも女性なのも事実だし、
別にそのことがいやだというわけではないし、
「30代の独身女性」でなければ書けないことも書いた。今しか書けないことというのは、いつでもある。
でも、ときどき、
「わたしは、『30代の独身女性』じゃなくて、わたしという一人の人間なんです」
と、言いたい気持ちになることがあった。

限りなくかぶせられ続ける属性。

その属性の範囲内で、その属性だからそうなんだと納得してもらえることしか書けないのではないか、という息苦しさ。
そういうものが常にあった。

「東京を生きる」の元になった連載が始まったのは、
「女の子よ銃を取れ」という本の連載と、まったく同時期である。

「女の子よ銃を取れ」は、
「こじらせている自分から、どうしたら抜け出せるんですか?」
と、イベントで訊かれたことから始まっている。
多くの人が外見のコンプレックスを抱えていて、
そこから自由になれない苦しさを持っていた。
わたしにもそういう気持ちは、今でもあるけれど、
克服してきたものもある。
上からものを言うみたいで抵抗があったけれど、
前に進むためのものを、できるだけきちんと、説得力を持たせられるように説明して書こうとしたのが、「女の子よ銃を取れ」だった。
自分の心の支えになっているのは、そうした本だったから、
自分もそんな「克服のための本」を書きたいと思った。

それと同時に始めたのが「東京」という連載だった。
それは、爆発しそうな気持ちをぶちまけていい場所だった。
矛盾があってもいい。「30代独身女性」のエッセイなんかじゃなくていい。
哀れだと思うなら思えばいい。
馬鹿だと思うなら思えばいい。
檻に閉じ込められそうな「30代独身女性」って、みんなが思ってるような、そんなもんじゃないし、
わたしがそうであるように、誰も「30代独身女性」なんかじゃない、めちゃくちゃな個人なんだと思いながら、書いていた。

ほとんどポルノのように、私生活はどんなか晒せと求められるのに、
多様性なんか求められていないし、ネタになるような変わった話か、「30代独身女性代表」みたいな意見が言える「立ち位置」か、
そのどちらかしか求められない。
毎日のように怒っている。
怒りを音楽で押し流している。

わたしはわたしで、属性はどうでもいい。
性別も年齢も恋愛も結婚も出産も、「キャラ付け」のための材料なんかじゃない。

前に進むための、双子のような連載だったと、今は思う。
もっと、書きたい。


いつかの雨宮

少し前に、取材の帰りに雨が降り出したことがあった。
初対面の男性の編集さんが、バッグからさっと取り出した折りたたみ傘が、
あんまりいい生地の傘だったので、
(折りたたみ傘は軽さ重視で、ペラペラした生地のものが多いですよね)
「それ、どこの傘なんですか?」
と訊いてしまった。

傘屋伝七のもので、新宿伊勢丹メンズ館にあるが、

日本橋のお店の店先で見せてもらうのも面白いですよ、と言われ、
住所を見ながら行ってみたら、
お店じゃなくて、普通の配送事務などをしている会社だった。
わたしが勘違いしただけで、他のところにお店があったのかも……と思いつつ、
傘を見せてもらえるか訊いてみたら、
「どうぞどうぞ」と通してもらえた。

わたしが見たい傘は、婦人用の折りたたみ傘だったのだが、
もともと、メンズの傘が中心のお店で、
「それは見本がないんですよね……」とのこと。
でも、伊勢丹メンズ館にも、婦人傘はたぶん、ない。

「晴雨兼用と書いてあったんですけど、これ、日傘だけど雨も大丈夫、っていう傘なのか、雨傘だけどUVカットなのか、どちらなんでしょう?」
と、いちばん訊きたかったことを訊いてみると、
「うちは、UVカットは基本的に全部の傘にかけるんです。これは、本当にどっちでも使ってもらっていいですけど、雨傘です」
と教えてくれ、在庫を探してきてくれた。

その傘は、編集さんが持っていた傘の半分以下のお値段の、小さめの傘で、
メンズの傘もお洒落でいいなぁ、と思ってもいたけれど、
なんというか、こういう流れができたら、もうこの傘と縁があったような気がしてしまい、
「ここで買えますか?」と訊いて、その場で買って、持って帰った。

そのあと、夜に雨が降った。
しっかりした生地の傘をさすのは、気分がよかった。

item.rakuten.co.jp



きょうの雨宮

少し前に、DOUBLE MAISONの展示会に能町みね子さんと一緒に行ったら、
(DOUBLE MAISON、ネット通販もあります。今シーズンは浴衣が本当にやばい。かわいい。http://www.doublemaison.com/category/01.html

スタイリストの遠藤リカさんが手がけられたコーナーがあって、
能町さんのお友達だというので、ちょっと紹介してもらった。

そしたら、遠藤リカさんが今度、28日にEsperというヘアサロンで
一日限りの展示イベント「ROSE展」をされるという。

http://www.esper-net.com/event/index1505.html

展示、ダンスやトークのほかに、前髪だけ安くカットしてもらうコーナーがあると知って、
それやってほしいなぁ、と思っていたら、
そういえば前髪だけじゃなく、全体的に伸びっぱなしだと気がついて、
展示の前にEsperに予約して、髪を切りに行ってみた。
いい感じにしてもらって、帰りにDyptiqueのお店で香水を試していたら
「勝手なイメージで申し訳ありませんが、お客様の雰囲気に合いそうなものがありますので、
試していただけませんか?」
と言われ、それがまたエキゾチックないい香りだったため、
ぶんぶん調子に乗りまくって帰った。

途中、表参道を歩いているときに、
裾のところに、正方形の形にくり抜かれたレースがあしらわれた、
白いパンツをはいている人を見かけ、
「お洒落だなぁ、5万円ぐらいしそうだなぁ」
と思った。


お洒落になるのはむずかしいが、
こう、「展示会で知り合った」とか、「紹介されたヘアサロンに行った」とか、
「そういうのお洒落選民の人の生活ですよね!?」みたいなことを、
照れを振り切ってやるのが第一歩な気がする。
こういうことをやってるときの自分は、友達から見ると、

なんか芝居がかってて変なんだそうだ。板についてないんだと思う。
しかし、やらなければ死ぬまで板につかない……。
そんな悲壮な覚悟で展示会とか行ってるの、自分だけだと思う。
(行くとかわいいものがいっぱいあるから、楽しい)

帰りに地元の駅ビルの中で、
表参道で見かけた人のはいていた白いパンツを見つけた。
5千円ぐらいだった。
やっぱり、あの、
「お洒落ですが、何か?」
という自信が、服をお洒落に、いいものに見せていたのだなぁ、と思った。

ちなみに髪を切ってもらうとき、
「(いい年なので)大人っぽく、今よりかわいらしいイメージで、しかし顔に似合わないほどのかわいさではない程度の感じでやってほしい」
と、正直には言えず、
「今よりフェミニンな感じで、丸みのあるシルエットで……」
と、うすらぼんやりしたことしか言えなかったのに、
いい感じにしていただいて、プロのありがたみというものをかみしめた。

気になる方は、つぎの日曜日のROSE展に行ってみてください。
遠藤さんが作られたワンピース、バラのブローチ、とてもかわいいです。


きのうの雨宮

きのう、東京新聞の読書欄の書評で、栗原裕一郎さんが「東京を生きる」を、山内マリコさん、田中康夫さんの本と並べて「東京」をテーマにした本、ということでとりあげてくださっていた。
Twitterで知って、新聞を買いに行き、
栗原さんは書評がものすごくうまいのでそりゃまあ感動も感心もして、
自分はなんもしてないのに、「いやーこれ読んだらみんなこの本ちょっと読もうと思ってくれるかも!」と思ったら、なんかひと仕事終えたような気分になって、
日曜日気分でいっぱいになり、仕事のスピードがあっという間に落ちた。
良い日だったが、そのへんはちょっとどうかと思う日でもあった。