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わたしと女子プロレス 8

12月23日、里村明衣子はスターダムのベルトを紫雷イオに奪われた。
里村が負けた。
「絶対、また挑戦しますから」
里村選手はその一言しか言わず、リングを後にした。
あんな悔しそうな顔は初めて見た。

これが、わたしにとっては今年最後に観る里村選手の試合だった。

 

あの試合のあと、いろんなことを考えた。
自分のことを振り返った。
(ここから、プロレス全然関係ない話です)

たとえば、いまでもわたしは、
「こじらせ女子って、自分はダメだからコンプレックスあるから無理〜って人のことひがんでねたんでグチグチ言ってるだけの根性曲がった女のことでしょ?」
という偏見を向けられることがある。

発端は星野源さんが、an・anのインタビューで、
おそらくわたしの本を読んでいないのに、インタビュアーに「こじらせ女子ってどう思いますか?」と訊かれ、
そうした世間の偏見の印象のまま「ダサイ。大嫌い」と答えたことだと思う。

わたしは、星野さんがどうというよりは、
読んでないことは確認できたと思うのに、世間一般の「印象」としてのこじらせ女子について質問し、
こういう答えが出たら載せる、というan・anの方針についても
強い疑問を持った。
誰かに代表して「言わせた」言葉にしか見えなかったから。

自分の書いた「女子をこじらせて」という本と、「こじらせ女子」という言葉は、
もはや乖離していて、
言葉のもとになった本にあたってみよう、正確にはどのようなことなのか知ろう、
という動きもほぼないのだと知った。
何かを言おうにも、そのあやふやな「こじらせ女子」に対して言われていることは、自分の書いたことに対して言われていることではなくて、どうにも噛み合わないところもあった。

自分の本は「じゃあこじらせ女子ってなんなんですか?」という問いに答える本ではない。
「こじらせ女子」とは何か、について書いた本ではない。
ただ、自分のこれまでの話を書いた本で、その自分の状態を「こじらせている」と表現しているだけで、他人をカテゴライズするための言葉ではない。
「私もこじらせてたんです。自分を表現する言葉が見つかってよかった」
と言ってくれる人もいたが、
偏見が広まるにつれ、「こじらせている」と自分から言おうものなら

「こじらせは甘え。コンプレックスを言い訳に行動しない女なんだろ?」

と冷たい目を向けられるような空気が生まれた。
読んでくれた人、共感していると表明してくれた人たちにまで、申し訳ない気持ちになった。

自分が発言しても、もう手に負えないほど、そうした偏見は広まっていたし、
もうどうしようもないという気がした。
あまりに見事に返される手のひらを見ていると、
「ああ、こんな、盛り上がったら盛り上がってる方に、逆張りが来たらそっち側につくような動きに、本気で意見を述べていくなんて、疲れるだけじゃないか」
と思った。
怒って、悔しい思いをして、でも全員に理解してほしいとも思ってなかった。「こじらせ女子」という言葉がなんか気に入らないからと、ただツイッターで一言言うくらいの人たちが、わざわざ本を読んでくれるとも思えなかった。

あきらめていた。

無駄に怒って、戦って、そんなことをしたら毎日どんなに心が削られるかと思ったし、
もともと攻撃的な人格が前に出てきて、人相が悪くなる、と思っていた。
無意識に「怒ってはいけない」と思っていたのだ。

本当にそうなのだろうか。
「怒ってはいけない」は、
「女が怒ってたら、イライラしてたら、人相が悪くなるよ」というのは、
「怒ったら、美しさとか穏やかな外見とかそういうものをすべて奪われる」という脅迫観念に近いものだったのではないだろうか。

自分が書いたもの、掲げた看板に対して、
よく見もせずに、適当なことを言われて、
本当は怒っているのに、
血が逆流しそうに怒っているのに、
それを我慢して、大したことがなかったふりをして笑って、

それで人相が歪まないと思っていた自分のほうが、いまは信じられない。
歪むに決まってるじゃないか。

 

怒ればよかったんだ。
自分の名誉を守るために、怒ればよかったんだ。
自分の名誉なんか、ないと思ってたし、そんなもん守ってどうなると思ってたけど、
それを守るのは、自分しかいなかったじゃないか。

怒りをなかったことにして、不信を感じなかったことにして、
それで心が穏やかになったかというと、そんなことはなくて、
おさえつけてなかったことにしてきたそれらの感情は、巨大な「無力感」になった。
ここまで書いても伝わらないんだという、巨大な無力感。
言葉が広まっても読まれないんだという、強烈な無力感。

それがあったから、丁寧に書こう、伝わるように書こう、としてきた数年ではあったかもしれない。
あの悔しさがあったから、自分が悪い、伝わるように書けない自分が悪い、売れてない自分が悪いと思って、がんばれたところもあったかもしれない。
けど、あのとき損なわれたものは、もう二度と返ってこない。
ただ、いま、自分に書ける最上のものを書こう、そうすれば必ず伝わるのだと、
それしか道はないんだと信じていた気持ち。
二度と返ってこない。

でも、その気持ちはまだ少しは残っている。
残っている。
毎日死にたいけど、こんな文章しか書けないまま死にたくない。

無力感のどん底にいたときに、出会ったのが女子プロレスだった。
自分の輝きを放とうと必死な女たちを見ていると、いつも、
自分はこんなふうに生きているだろうかと思う。
認めてもらえるかなんて、知らない。
伝わるかなんてわからない。
知名度も、才能も、力も、なにもかも足りてなくても、
リングの上で堂々と立つ人たちの背中は、いつもまぶしい。

正しくなくていい。間違っててもいい。
王道でも、邪道でもいい。
才能があってもなくても、実力があってもなくても、
そこに立った以上、立てた以上、輝きを放てないまま、リングを降りたくないと、
誰もが思うんじゃないか。

プロレスで、わたしは、勝手に人間を見てる。
人生を見てる。
今年の半分は、そのことに支えられた。
里村選手の背中に、十文字姉妹とサンダーロックの攻防戦に、カサンドラ宮城の誕生に、岩田美香の鋭い闘志が宿る目つきに、橋本千紘の三人抜きに、支えられた。
いいときも悪いときも、戦わなきゃいけない。
いいときだけの人生なんてない。
そういう、言葉で言えば当たり前のことが、
一人の人間の存在を賭けて証明される瞬間を、何度も観れた。

里村選手と戦える嬉しさに、
里村選手と同じ赤いコスチュームを纏い、里村選手と同じ真っ赤な口紅をつけて登場した紫雷イオ選手。
その心意気がまぶしい。
まっすぐさがまぶしい。
戦いは続くし、人生は続く。
何をすれば勝てるのか、負けるのか、輝けるのか、わからない。
でも、何もしないで勝てることはないんだ。

負けたときに、悔し泣きするような思いを賭けた人生でありたい。
今年観た女子プロレスのすべての試合に、感謝を。
来年も、よろしくお願いします。