きのうの雨宮

話題になっていたNHKの番組「助けて! きわめびと」の「キレイと言われたい」の回を観た。

この番組は、視聴者からの応募をもとに、その悩みに応じた、その道を極めたプロフェッショナル(きわめびと)を派遣する、というものだ。
そしてこの回は、山形県在住の48歳の女性が「一生に一度でいいからキレイと言われたい」と応募し、パーソナルスタイリストの政近準子さんが派遣されていた。

政近さんは応募者の自宅を訪れ、私服をチェックして「この中では、これを着たらおしゃれに見える」とアドバイスをするが、応募した彼女は「なんだか借り物みたいに見えません?」とまったく納得しない。「政近さんがあまりにも苦手なタイプの人だった」と彼女は言う。政近さんは、きれいで、お洒落だ。そんな人にアドバイスされるのは、上からものを言われているように感じたのかもしれない。親身になってくれていると思えなかったのかもしれない。単に都会っぽいセンスの人だから、自分の生活に沿うファッションを選んでくれると信用できなかったのかもしれない。そこは、語られない部分なのでわからない。でも、私には彼女が政近さんを、自分とは違う人種だから、自分の苦しみがわからない人間だから、拒絶したように見えた。

そんな彼女に、政近さんは自分の苦労話をする。生涯完治しない難病を患っていること。顔や腕にケロイドができ、人の目が気になって外出できなくなった時期があること。でも、あるとき、家族の支えをきっかけに、お洒落して外に出たら、誰も自分に哀れみの視線を向けてこなかったこと。政近さんは涙を流しながら、その話をした。それを聞いた彼女は、政近さんの苦労を知り、心を開いて「自分がなぜ今までこのような服を選んできたのか、なぜ変わりたいのか」を考え、政近さんのアドバイスを聞き、本音を話すようになる。

すごくいい話にまとまっているのだが、私はこの番組を観て、心に棘が刺さったようになり、最後まで抜けなかった。

それは、「政近さんが、ただの美人でお洒落な人ではなく、苦労している人だったから受け入れられた」という、その点のせいだ。

もちろん政近さんはただの美人でお洒落な人ではない。パーソナルスタイリストとして仕事をするプロだ。なぜ、それだけで受け入れてもらえないのか。「美しくなりたい」という意志を持ち、それを助けるために政近さんが来てくれたのに、信頼できないのか。

外見の問題は難しい。自分がお洒落じゃない、美しくないと思っていても、人にアドバイスされると、これまでの自分を否定されたようで傷ついたり、反射的に怒りの感情がわいたりする。でも、そんなのは当たり前のことじゃないのか。それぐらいの覚悟もなしに、「キレイだと言われたい」と言ったのか。

そして、自分よりも不幸で、苦労している人のことしか受け入れられないのだとしたら? 政近さんが大変な思いをした、という話をしなかったら、受け入れなかったのか?

私は、自分ではそう思っていないから平気で書くけれど、「こじらせてるとか言ってるけど、美人じゃないですか」と何度言われたことかわからない。どうして欲しいのだろう。わたしが自虐的な面白い話でもして、笑いにして流してやればよかったのだろうか。本当に若いころ醜かったことを、写真でも出して証明すれば良かったのか。

面と向かってそう言った人のほとんどは、私よりもお金持ちで、結婚していて、社会的に成功していた。

美人で売れる年齢でもなければ、売りものになるほどの見た目じゃないことぐらい知っている。そう言われる程度になれたのは、自分の努力によるものだと、知っている。

「こじらせてるとか言ってるけど、本を書く才能はあったわけだから、全然不幸じゃないじゃないですか」と言われたこともある。私から、書く能力も奪わなければ、「共感なんかできない」とでも言いたいのだろうか。

そういうことを言う人たちは、私が何かを手にしていることが、気に入らないのだと思う。何かを手にしているのに、苦労した話を書いたことが、気に入らないのだと思う。苦労した話を書くのなら、もっと失え、もっとどん底まで行けと、言っているのだ。書く才能があるなんて恵まれてる、その最後のひとつまで手放さなければ、お前の言ってることなど信じない、と。

 

自分よりも不幸な人の話しか、心に入ってこないのだとしたら、その先には何があるのだろう。
ネットでは毎日、より強烈な悲劇が求められているように感じる。美しい悲劇ではなく、誰かが失敗したり、失言をしたりする、みっともない、醜い悲劇を。

そんな欲望に応えていたら、いったい、どうなってしまうのだろう。
地獄のような絵しか、浮かんでこない。

誰かがひどい目に遭っていることが、誰かを救ういちばんの道なのだろうか。

誰かの悲劇、誰よりもひどい悲劇が。