きのうの雨宮

東京都現代美術館山口小夜子展に行ってきた。
山口小夜子を知ったのは、確か高校生ぐらいのとき、90年代前半だったと思う。
ファッション誌で知り、「見たことのある人だな」と思うくらいには、
それまでに目にする機会があった。
古書店で彼女の本を買って読んだりした。

展示は、資生堂ギャラリーで行われていたセルジュ・ルタンス展、中村誠展の要素も含んでいて(どちらも良い展示だったので、もう一度見られて嬉しかった)、
それ以外には、ショーモデルとしての山口小夜子、パフォーマーとしての山口小夜子

裏方として衣装デザインや制作をしていたという要素も展示されていた。

モデルとしての山口小夜子は、あんなに和装がしっくりくる見た目だが、
わたしは、洋装をしているときが好きだ。
違和感があるはずなのに、その違和感がなんらかの力により、見事に調和してしまい、
和洋折衷状態になるのが気持ちいい。
和装や、おおげさにフューチャリスティックな姿よりも(そんなもの似合うに決まってる)
クラシックなドレスやスーツを着こなしている姿、現代的な装いの姿が好きだ。

見たことのなかったものといえば、山口小夜子の「動画」、そして聴いたことのなかった「肉声」があった。
それを前にしたとき、おそろしいことに、かなりの嫌悪感があった。
それがわたしにとっては「山口小夜子のイメージを壊す」ものだったから。
山口小夜子展の半分以上にわたしは嫌悪感があって、
わたしは山口小夜子に生きていてほしくなかったのだ、

死んでいてほしかったのだと思った。

欲望は、エゴイスティックで、こわい。
人のかけがえのない、一度きりの、懸命に生きたはずの人生を踏みにじる勢いで暴走する。
わたしは山口小夜子に、ミステリアスなカリスマでいてほしかった。
人間らしい表情や、ぞくりとこない肉声や、
そういうものは見たくなかったのだった。
人間でいてほしくなかったのかもしれない。

山口小夜子が好きか、と訊かれたら、好き、と答える。

その「好き」は、本当の愛なんかではない。
あるはずがない。